豊臣秀吉に仕えた『大谷吉継』

大谷吉継(おおたによしつぐ)1559-1600

通説では近江生まれであるが、父の大谷盛治は豊後・大友氏の家臣であったともいわれる。母は豊臣秀吉の正室の侍女といわれているが不明。

幼名・桂松。通称・紀之介。刑部小輔。秀吉の小姓から奉行の一人となった。

賤ヶ岳の戦い前に長浜城主で柴田勝家の甥で養子の柴田勝豊を調略して内応させる手柄をたてた。

九州征伐に戦功があり、越前国に五万石の敦賀城主となる。小田原征伐に従軍し、奥州仕置でも活躍した。

朝鮮の役では船奉行・軍艦を務め、豊臣秀吉に「吉継に百万の軍勢を指揮させてみたい」といわれたという。

秀吉の没後は、宇喜多秀家から家老衆との対立の調停を頼まれるが紛糾し、榊原康政に調停を依頼した。

徳川家康と懇意であり、上杉討伐軍に参加するために石田三成の佐和山城へ立ち寄ったとき、親友・三成から説得されて勝ち目のないことを知りながら西軍についた。その後敦賀城へ一旦帰還して前田利長を計略をもって撤退させ、北陸戦線を有利に進め、三成らとともに関ヶ原の戦いに参陣。

癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆い、失明して盲目の身でありながら輿に乗って指揮をとって、京極隊を撃破し藤堂隊を敗走させた。

小早川秀秋が裏切ると一時は押し返すほどの逆襲をするが、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊の寝返り壊滅し自刃した。そのとき「金吾(小早川秀秋)め人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と言い放ったといい、二年後に秀秋は発狂して死亡している。

妻:

父:大谷盛治

子:吉治(年齢差から弟とも)、木下頼継、竹林院(真田幸村妻)

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