大久保忠教(おおくぼただたか)1560-1639
徳川家康の家臣。大久保忠員の八男。忠雄。幼名・平助。通称・彦左衛門
天正四年、兄・大久保忠世に従い遠江・乾城合戦で初陣し、それ以来兄に従って多くの合戦に参加
忠世の死後、天正十八年に甥の大久保忠隣の所領から二千石を領する
慶長十九年、忠隣の失脚により駿府へ召され千石、槍奉行となる
大坂の陣に参戦し、真田幸村の本陣急襲時には家康を守り戦った
戦後、家康が本陣の旗が倒れたかどうかの詮議をした時、ただ一人立っていたと言い張り旗奉行をかばった
寛永二年、旗奉行。同十年には千石加増され二千石となる
次兄・忠佐に世嗣がいなかったために養子として家を継がせようとしたが、「自分は兄程の武功をたてていない」と断った
晩年は子孫への訓戒や主君に仕える者としての在り方を説いた、『三河物語』の著述に没頭
芝居や講釈などで三代将軍・徳川家光に謁見し必死に諫言を行う「天下の御意見番・大久保彦佐衛門」として描かれた
寛永十六年二月一日、八十歳で死去。墓は尾尻(岡崎市)の長福寺
妻:馬場信成の娘
父:大久保忠員
子:忠名・包教・政雄
兄弟:忠世(兄)・忠佐(兄)・忠正(忠包?)(兄)・忠寄(兄)・忠核(兄)・忠為(兄)・忠長(兄)・忠元(弟)
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