織田信長(おだのぶなが)1534-1582
織田信秀の嫡男、幼名・吉法師、元服後は三郎信長、上総介。
信長の父信秀は守護代・清洲織田氏の家臣だったが、実力で本家をのっとり、尾張に勢力を張った。
元服後の信長は半袴にヒウチ袋などを下げ、太刀は朱鞘、身につけるものはことごとく赤色という異様な風体をし、町で餅をかじりながら歩くという変わり者で「大うつけ者」と呼ばれた。
天文十七年、美濃・斉藤道三と父・信秀の和睦により、道三の娘・濃姫を室に迎える。
天文二十年、父の急死によりあとを継いだ信長が、父の法事のとき縄帯のまま袴もつけず仏前に進み出て、香を仏前につかみ投げて立ち去った話は有名。傅役の平手政秀が信長を諌めるために腹を切っても行状は改まらなかった。
このため家中では信長に見切りをつけたものも多く、弟の信行を立て内紛が起こる。この内紛を信行誅殺によって治め、家中を掌握した。
この後は父から受け継いだ尾張半国の領土をもとに、尾張統一へと力を注ぐ。この頃に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が仕官する。
しかし永禄三年、駿・遠・三の百万石太守・今川義元が一気に上洛のため(一説に尾張攻め)二万五千の大軍で押し寄せ窮地に陥る。
この戦いを義元本陣への三千の兵での奇襲により勝利(桶狭間の合戦)した。
三河の徳川家康と同盟を結び背後の抑えとし、妹のお市を近江の浅井長政に嫁がせ、養女を武田勝頼の妻として西上への布石を打つ。
そして永禄十年、美濃・斉藤氏を滅ぼし、美濃・稲葉山城に入って地名を岐阜と改めた。
この頃、足利義昭が京を追われ信長を頼ってきたため、永禄十一年、義昭を奉じて近江の六角氏を討ち破り京都に入り、義昭を将軍の位につける。
しかし次第に信長の威勢が上がるのをねたんだ義昭が越前・朝倉義景と通じたため、信長は朝倉討伐に出陣するが、妹婿・浅井長政に裏切られ敗走。
再び同盟者・徳川家康と浅井氏の小谷城へ攻め込み、元亀元年、浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の合戦)し一旦和睦した。そして元亀二年、浅井・朝倉を助けた比叡山延暦寺を焼き討ちする。
元亀三年、甲斐の武田信玄が大軍を率いて上洛の途につき、家康の三河に侵攻。家康に三千の兵を差し向け、信玄軍とが戦う(三方ケ原の戦い)が大敗し、天正元年には足利義昭も挙兵し、今川義元上洛以来の窮地に陥る。
しかし陣中で信玄が没し窮地をまぬがれ、足利義昭を二条城に包囲し、天正元年足利幕府を滅ぼした。残る反抗勢力・浅井氏を攻め、援軍を差し向けた朝倉義景を撃破して居城・一乗谷城まで追撃して滅ぼし、浅井氏も滅ぼした。
また、天正三年には信玄のあとを継いだ武田勝頼と戦い、鉄砲隊により大勝して武田氏の勢力を後退させた(長篠の戦い)。
これでほぼ反勢力を平らげた信長は、天正四年、五層七重の大天守閣を備えた安土城の築城を開始。内大臣、後に右大臣に昇る。
しかし毛利氏の支援を受けた石山本願寺が再挙したため本願寺の攻撃を開始。天正五年、羽柴秀吉や明智光秀を備前・播磨・鳥取などに派遣し、本格的な中国計略に着手する。
そして天正八年に十年間に及ぶ抗争の末、石山本願寺を屈服させた。天正十年には甲斐の武田征伐に出陣。家康と連携して甲斐に侵攻して武田氏を滅ぼした。
同年、武田攻めに貢献した徳川家康と穴山梅雪を歓待するため安土に呼んだとき、秀吉からの救援依頼を受けて明智光秀を中国へ派遣。
自らも出陣のためにわずかの供廻りと京・本能寺に宿泊。ところが中国へ先発した筈の明智光秀が突如本能寺を急襲し、信長は炎の中で四十九歳の生涯を閉じた(本能寺の変)。
信長は関所を廃止し、城下町に楽市楽座制をしき、検地指出を徹し、堺など都市と流通を掌握するなどの統一政策をしいて中世権門に大打撃を与えた。
妻:濃姫(斉藤道三の娘・奇蝶)
父:織田信秀
子:信忠、信雄、信孝、秀勝(秀吉の養子)、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、以上男十一人
五徳(徳川信康妻)、冬姫(蒲生氏郷妻)、秀子、永(前田利長妻)、その他約五人の娘
兄弟:信広(異母兄)、信行(弟・信勝)、信包(弟)、信治(弟)、信時(弟)、信興(弟)、秀孝(弟)、秀成(弟)、信照(弟)、長益(弟・有楽斎)、長利(弟)
お市(妹・浅井長政妻、後に柴田勝家妻)、その他妹十から十二人
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