戦国時代の最強武将としても名高い稀代の名将『上杉謙信』

上杉謙信(うえすぎけんしん)1530-1578

越後守護代長尾為景の末子。幼名虎千代。元服後は喜平次景虎。関東管領。弾正将弼。

天文五年の為景没後、林泉寺に預けられ、天室光育について勉学した。

長兄の長尾晴景が家督を継いだのちに胎田常陸介が謀反を起こし、景虎は本庄慶秀を頼り栃尾城へ逃れた。

徐々に胎田一族の勢力を駆逐し内乱を平定。

越後守護・上杉定実の調停で、天文十七年に家督を兄・晴景から譲られ春日山城に入った。

信濃・葛尾城の村上義清が武田信玄に追われ、越後に援助を乞うたため、天文二十二年、謙信は信濃に出兵し川中島で武田信玄と対戦。これ以降、宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」を戦った。

同年には上洛して後奈良天皇から勅命をこうむり、将軍や朝倉氏と連携した。

また関東管領・上杉憲政が北条氏康に上野・平井城を追われ、影虎を頼って越後に逃れてきたため、出兵して平井城を奪還。

弘治三年、憲政は景虎を養子として管領職と上杉姓を譲り与えた。これ以降、憲政の頼みにより十四回にわたる関東出陣を余儀なくされ北条氏を敵に回すことになる。

更に往年の敵・越中一向一揆との戦いも行い、東奔西走することになる。

永禄二年に上洛し、将軍・足利義輝に面謁し名を輝虎に改名。正式に関東管領に補せられた。

武田氏との連携作戦で北条氏が上野の上杉方の諸城を繰り返し攻めたため、永禄四年、北条氏の本拠・小田原城に二万の兵で進軍し包囲。城を落とせなかったが、これ以降北条氏の行動を抑えた。

同年、有名な第四次川中島の合戦があり、山本勘助の「啄木鳥戦法」を看破し信玄の弟・信繁を討ち取り、信玄と一騎打ちを行ったといわれる。

今川氏真と北条氏康が謀って武田信玄を困窮させるため、甲斐へ塩の供給を止め謙信も求められたとき、民の困窮を憂いて塩を送ることをやめなかった。後に「敵に塩を送る」という言葉として伝わる。

その後剃髪して不職庵謙信と号す。北条氏とは和睦し、人質として氏康の末子・氏秀を養子として景虎の名を与えた。

元亀三年、信玄が西上の軍を起こすと織田信長と同盟し、越中・富山城を攻略。天正元年に信玄が没すると越中を平定した。

同年、本願寺と和睦して信長と断交。能登・七尾城で織田家と通じた謀臣による内乱が起こり、一万三千の兵で能登に進撃。

攻めあぐねたが、疫病がはやったこともあり、天正五年に七尾城を落とし、加賀の手取川の戦いで織田軍を撃破した。

安芸の毛利氏と連携して信長討伐を策し、天正六年に関東出陣を前に急死。

謙信は、近代戦術の祖ともいわれる戦さ上手であったが、民政にもよく心を用いた名将といわれる。人物は清廉で、文学や道義にあつい文武両道の人であった。

妻:なし(生涯独身)

父:越後守護代長尾為景

子:景勝(養子・長尾政景次男で甥)、景虎(養子・北条氏康七男)

兄弟:晴景(兄)仙桃院(姉)

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