豊臣政権における五大老のひとり『上杉景勝』

上杉景勝(うえすぎかげかつ)1555-1623

越後・坂戸城主長尾正景の次男。母は上杉謙信の姉・仙桃院。幼名喜平次。上杉謙信の養子となる。

初名は顕景でのちに景勝と改名し、謙信から弾正少弼の位を譲られた。

謙信の急死すると、明確な後継者が定められていなかったため、同じ養子の・上杉景虎(北条氏康の子)との間で後継者争いが勃発(御館の乱)。この戦いで武田勝頼を味方につけ上杉景虎を破り越後藩の藩主となった。このときの約定で勝頼の妹を娶る。

その後は織田家の侵攻に防戦したが加賀・越中を失い、同盟者である武田家も滅亡したため、上杉家も滅亡の危機を迎える。しかし本能寺の変で危機を脱し、混乱する北信濃を巡って北条氏直と戦い退け、川中島を切り取り、領国内の反対分子や佐渡、庄内を制圧し、越後春日山城主として九十万石の領主となった。

そして豊臣秀吉と結び小田原攻め、朝鮮出兵などに参戦。五大老の一人に任ぜられ会津百二十万石に転封される。

秀吉没後に領国で大規模な整備を敢行したため、五大老筆頭の家康が釈明と上洛を求めたが、家老の直江兼続が返書(直江状)で拒否し、結果上杉攻めを招いた。これが関ヶ原の戦いを誘引する。

小山まで進軍してきた徳川方が石田三成の挙兵で反転して関ヶ原に向かったとき、上杉軍は最上・伊達軍と戦い撃退するが、三成の敗戦の報を受けて撤退。

戦後は兼続が結城秀康や本多正信を通じて交渉し、改易は逃れたものの米沢三十万石に減封される。しかし家臣をほとんど解雇せず、下級藩士を農業に従事させるなど縮小した所領の整備を行い、のちに実収五十万石に石高を上げることに成功した。

大阪冬の陣には徳川方として鴫野の戦いで二倍の豊臣軍を撃退。夏の陣では京を守備して八幡山に布陣した。

元和九年死去。寡黙な人物で常にこめかみに青い筋を浮き出していて、生涯に1度しか笑顔を見せたことがないと言われる。

妻:菊姫(武田信玄娘)、四辻氏(側室)

父:長尾正景

子:定勝(米沢二代藩主)

兄弟:兄(早世)

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