石田三成(いしだみつなり)1560-1600
豊臣秀吉の五奉行の筆頭。通称・佐吉。初名・三也。治部少輔。近江・佐和山城主。
近江の坂田郡石田村出身。十五歳のとき、当時長浜を領していた秀吉に認められ側近の吏僚となる。この時の「三椀の才」の逸話は有名。
天正十三年、秀吉の関白就任の際に従五位下治部少輔に叙任され、堺奉行を勤めた。
天正十五年の九州征伐では兵站を担当し、島津氏との折衝にあたり、さらに博多の復興に尽力した。
天正十八年の小田原攻めでは、上野・館林や武蔵・忍城攻撃を担当。続く奥州平定にも参加した。
元禄元年の朝鮮出兵では船奉行として兵員輸送にあたり、増田長盛・大谷吉継とともに奉行として渡海した。そして在鮮軍の行動を秀吉に報告し、これが後の在鮮軍の武将(武断派)との確執につながることになる。
五大老五奉行制ができたとき五奉行の一員となったが、秀吉が死去すると博多で在鮮軍の撤退に尽力する。
秀吉の晩年から三成らの文治派と加藤清正らの武断派の対立があり、秀吉の没後に激化。慶長四年に武断派の襲撃を受けて佐和山に隠居する。
しかし慶長五年に徳川家康が上杉景勝討伐に東下したのをきっかけに反徳川派を糾合して挙兵。九月十五日に美濃関ヶ原で決戦を展開するが一日で敗れて逃走。のちに捕らえられて十月一日に京六条河原で処刑された。四十一歳。
三成の所領は近江・佐和山十九万四千石だが、各地の豊臣氏蔵入地の代官を勤めたため、三成の威勢はとても強かった。
また、豊臣政権の内政面での政策中心人物であり、諸国の検地を実施し、農民政策にも関与した。
妻:宇田頼忠の娘(真田昌幸の妻とは兄弟)
父:石田正継
子:長男(重家)、次男(重成、杉田源吾)、
兄弟:正澄(兄)
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