宇喜多秀家(うきたひでいえ)1573-1655
宇喜多直家の嫡子。母はお福の方(円融院)。幼名・八郎。父の病没により九歳で家督を相続する。
毛利攻めに参陣した羽柴秀吉に気に入られ、のちの元服時には「秀」の字を与えられ秀家と称した。また、秀吉の養女で前田利家の娘・豪姫を娶り豊臣一門として扱われた。
本能寺の変後の秀吉の天下取りに貢献し、備前・美作・播磨西部と備中東半分の五十七万四千石を与えられた。
文禄の役では大将として出陣し、その功により中納言、更に五大老に任ぜられた。
この頃、岡山城の築城と城下町建設に着手し、岡山発展の基礎を築いた。
しかし秀吉の死後に家臣の統率に失敗し、お家騒動が勃発。宇喜多詮家らの重臣達に離反される。
また、前田利家没後に加藤清正ら武断派と石田三成らの文治派の抗争が始まると、三成寄りの行動をとった。
徳川家康の上杉討伐時には、石田三成の挙兵に属し、西軍の副大将として伏見城攻撃に参加。関ヶ原の戦いでは西軍の主力となって福島正則隊と激戦するが、小早川秀秋の裏切りで壊滅し敗走。各地を潜伏後に薩摩の島津家へ逃れ、出家し休復と称した。しかし、島津と幕府の和睦交渉がなり、三年後幕府に出頭する。前田利長と島津家久の懇願によって死罪は免れ、駿河国久能へ幽閉。その後、二人の子息や近侍と共に八丈島へ配流された。号を久福と改め、加賀前田家や元家臣の旗本・花房氏等の援助を受けて五十年を過ごし八十三歳で没す。
妻:豪姫(豊臣秀吉の養女・前田利家娘)
父:宇喜多直家
子:秀高、秀継
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