明智光秀(あけちみつひで)1528-1582
足利義昭・織田信長に仕えた武将。通称・十兵衛。清和源氏で土岐下野守頼兼の末裔といわれる。惟任日向守光秀。
前半生は不明だが、伝承によると美濃・可児郡明智荘を領していた土岐氏の庶流・明智光綱の子。幼くして父が病死し、叔父明智光安に後見される。斉藤道三の台頭により斉藤家に仕え、光秀の叔母が道三に嫁ぎ生んだ子が濃姫といわれる。
道三と子の義龍が戦をはじめると明智家は道三側につき籠城。戦後に義龍の攻撃を受けて明智城は落城。光秀は光安の子・光春と光忠を連れて城を落ちた。
その後の牢人時代を経て越前の朝倉義景に仕え、越前に来た足利義昭を信長に引き合わせた。信長上洛以降、足利義昭の家臣という身分のまま、信長にも仕える。
元亀二年、信長から近江志賀郡の地を与えられ坂本城主となる。
室町幕府の滅亡後は信長の武将として丹波攻略、本願寺攻め、雑賀攻め、松永久秀討伐、荒木村重討伐などの戦功をあげ、天正三年には惟任の姓を与えられ、日向守に任じられて、天正八年に丹波一国を与えられ亀山城主となった。
天正十年三月に甲斐武田攻めに従軍し、五月に安土城において徳川家康の接待役を勤めた。
その途中で西国出陣を命じられ、亀山城で出陣の準備を整えると、六月二日、京都・本能寺を奇襲して信長を討つ(本能寺の変)。
しかし同月十三日、中国から大返しした羽柴秀吉と山崎で交戦(山崎の合戦)し敗れ、近江・坂本に逃走するが伏見・小栗栖で落ち武者狩りに遭い死亡。なぜ主君の信長を倒したのか明らかではない。
光秀は茶の湯・連歌に優れており、文化人との交遊も深かった。その他、故実・典礼にも通じ、民政にも優れていた。
妻:妻木勘解由左衛門範熙の女(煕子)
父:不明
子:長男(十五郎)、次男(名は不明)、長女(荒木村重の嫡男の妻/明智秀満の妻)、次女(織田信澄の妻)、三女(細川忠興の妻ガラシャ)
兄弟:信教(弟)、康秀(弟)
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